三都ものがたり、その後

息子たちの自立までの記録、現在格闘中です。【過去ログに北京情報もあります】

暦がひと回りして、年表にしてみた⑤2015年

気になりつつ、気づいたら10か月もほったらかし。久しぶりに書こう!順調に入力してたのに、画像貼り付け、取り消しとかしてたら、文章消えちゃった(泣)

 

その文章は載せるなという「サイン」なのね、分かりました。書き直します。

 

2015年

二男 浪人~大学1年

おめでたいはずが、紆余曲折の1年。第一志望の国立に不合格となった時点で、合格していた私立に行くと思っていたら、私も知らないうちに国立後期を受けて、結果合格し、その国立に行くと、急に言ってきて・・・

【左手打撲事件】

私はどういうことなのか、二男の部屋に聞きに行くと、結論だけで詳しく話さず、もう話すことはないとばかりに、引き戸をバンッとすごい勢いで閉めた。「痛いっー!」戸柱に手を置いていた私、左手を挟まれた。手はみるみるグローブのように腫れて、湿布してあわあわしながら、この家にいては心身おかしくなる。腫れや痛みは気になったが、とにかく出勤、職場で応急手当してもらう。でも私の異様さを察した職場のみなさんは心配そうに話しを聞いてくれた(泣)帰宅時に病院に寄りレントゲン診察、骨に異状なく打撲だった・・・打撲の痛みよりも感情の処理が追い付かない。なんで私がこんな目にあわなきゃいけないの?感情がぐるぐるして苦しかった。

【入学式】

「入学式はいつなの」と聞くと「来なくていい」と。いくら第一志望でなくても大学生となる二男を祝いたい気持ちだったのに、何でそういうこと言うかな、本当に悲しい。祖母が状況を見かねて二男に「入学式、お母さんだって見たいのよ」の一言で、態度を軟化。二男は一人先に会場へ、私も一人入学式を見に行った。嬉しそうに入学式の看板の前で写真を撮る親子の姿がうらやましく、複雑な気持ちのまま会場を後にし出勤。

ダブルスクール

大学が始まって1~2週間たった時、急に「公認会計士の資格を取りたいからダブルスクールに行かせてくれ」と言ってきた。まだ大学も始まったばかり、大学でも資格系の授業はあるだろうし、公認会計士の勉強サークルとかもあるから、まずは大学の授業を優先と話すと、「行くはずだった私立の学費と国立の学費の差額があるだろう、それで行かせてくれ」と・・・

私は目が点になった。この時、なぜ私立でなく国立を選んだ理由が分かった。第一志望に行けなかった、学歴格差を資格で埋めようと考えたようだ。

それなら、資格をとって公認会計士として将来働きたいのかと聞くと「別になりたいわけではない」と・・・なりたくないなら、ダブルスクールは必要ない。差額を使うなら、留学や本当にやりたいことが見つかった時に考えればいいということで、二男はダブルスクールをあきらめたが、前途多難を予感させるスタートだった。

【大学から手紙】

前期が終わり、夏休みに入ると大学から保護者宛てに手紙が届いた。「前期必修科目○○単位落としているので、学生本人と面談します」という内容だった。二男に確認すると「やる気が起きず、出席しなかった」と。はぁー--切り替えて大学に行ってると思ったら、溜息しかでない。

【長引く反抗期】

面談も受け、ヤバいと思ったらしく、授業は行っているようだった。アルバイトはしている様子がなく、相変わらず何も話さない。大学生活の様子は全く分からないが、分かったことは、ボルダリングサークルに入ったことと昼ごはん。実費支給にしていたので昼代の学食のレシートには品目とカロリーがしっかり書いてあった(笑)大学生活を楽しんでいる感じは伝わってこず、大学にとりあえずいって「こなしている」という感じだった。不本意入学をいまだ引きずっているのか、他責か、何を聞いても無視、何も話さない、「おれにかかわるな」という威圧感がすごかった。

 

長男 22~23歳

変わらずゲーム三昧、昼夜逆転の引きこもり生活。

この頃、私は「何かできることはないか」と公的支援や引きこもりに関するサイトで情報収集している中で

ヒューマン・スタジオ | 不登校・ひきこもり生活研究所

に巡り合い、代表の丸山氏のメルマガ、著書を読んで希望をもらった。ヒュースタのHPで親の会「しゃべるの会」というイベントを見つけ、参加してみることにした。同じ悩みを持つ親御さんたちと、それぞれの思いを打ち明けたり、丸山さんからアドバイスいただくこともできた。この時自分が動いたことで、勇気といつもと少し違う空気を感じていた。

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この会の後、長男にはまずは身体良くしよう、背骨気になるから整体に行ってみないかと話すと「行ってみる」と、近所の整体院に定期的に通いだした。長男の引きこもり生活の中で初めての前向き発言と行動だった。

 

振り返ってみると、この2015年が少しずつ動き出す兆しの時だったのかもしれない。。