三都ものがたり、その後

息子たちの自立までの記録、現在格闘中です。【過去ログに北京情報もあります】

暦がひと回りして、年表にしてみた⑥2016年

2016年

二男 大学1年~2年(21歳)

何も話さない状態は変わらず、前期の単位落としの通知から大学には通っていたが、いわゆる大学生らしく楽しんでいるかと言えば、そんな様子はなく、ほぼ大学⇔家の往復だけで、部屋に居る時間が長く、何を考えているのか、まったく分からなかった。

 

そんな二男が8月に入り急に「大学のそばで一人暮らししたい」と言ってきた。大学はちょっと不便な場所ではあるが、うちから1時間かからず行けるところで、充分通えるが、3LDKのマンションに大人4人がひしめくこの家で、兄の状態、父との関係、二男なりにに今の状況を打開したいのだろうというのが感じられた。家賃4万+光熱費・食費として2万=計6万/月までの援助、あとはアルバイトで稼ぐことを条件に許すことにした。

 

8月のうだるような暑さの、大学近くの部屋を3か所内見、不動産屋さんの車でも何もしゃべらず。。。日当たりはよくないが、予算内の大学の近くのワンルームに決める。不動産屋さんで契約を済ませると、そそくさと一人帰宅。希望通りに一人暮らしのサポートをしたのに、何の言葉もなかった。何をしても虚しさだけが残る。【家賃4万のアパートの初期費用は26万、一人暮らしスタートは最低でも50万は必要と実感】

 

引っ越しにあたり、引っ越し代、必要な家電代はすべて自分で見積手配すること(安い引っ越業者を探し、家電最安値を探す)その費用は援助。9月、すべて自分で手配した二男は、あっという間にアパートへ引っ越していった・・・何の言葉もなく。一人暮らしの条件として、月に1回は家に戻り、夕飯を食べることを約束した。

 

10月一人暮らし後、初の顔出し。帰宅し、元の部屋に直行すると、そこが長男の部屋になっていたことに気づきリビングへ・・・黙って食事を待ち、こちらの質問に「うん」と短く答えるだけ、食事を済ませると何も言わすさっさと帰る、滞在時間1時間。こんなことの繰り返しだったが、約束は守って月一帰ってきた。住む場所を変えて、何かが変わるのかと期待したが、私の目には変わったようには見えなかった。

 

 

長男 23歳~24歳

変わらずゲーム引きこもり生活。ただ、二男が引っ越したことで、リビング続きの部屋から元二男の部屋に移動した。またこの年、私の妹から甥っ子の英検合格のための家庭教師の依頼があり、週1回家庭教師に通うことも始めていた。※結果甥っ子は無事英検に合格!

 

ロールカーテンで仕切ったリビングの一角で寝ていた私も、長男がいたリビング続きの部屋に移動。夫の長時間夕食や外で飲酒して帰宅したときの言動やテレビの音量といった、夫からのストレスから逃れて、安心して寝ることができるスペースが確保できた。※いびきと臭い(アルコールが分解される)で夫と同じ部屋では寝られない。

 

二男がアパートに引っ越してから、ひしめく空間と重い空気に少し余裕が出たせいか、私も少し動けるようになってきて、横浜でのひきこもりについてネット調査を開始、10月赤レンガでK2ひきこもりの集中相談会があり、それに参加、初めて相談した。

【終了しました】不登校・ひきこもり集中相談会(無料)赤レンガbyK2開催|K2インターナショナルグループ

このイベントで話を聞き、夫にも相談し、長男に話してみると、今までどんな提案をしても「自分で何とかする」と言っていた長男が、初めて「行ってみる」と。。。やっと、やっとだ。

 

11月に面談を予約、まずは親子3人で面談、長男1人で面談、親だけで面談。この時初めて「発達障害と言われたことはありませんか?」と質問されたことを今でも覚えているが、この時は長男にその可能性があるとは、私自身少しも思っていなかった。

 

その後本人だけの面談をして、長男は1月からK2の事業所、大船にある湘南・横浜若者ステーションに通うことになった。2016年の終わり、少しトンネルの向こうの光が見えてきた気がした。

トップページ│湘南・横浜若者サポートステーション

 

2023年 ひきこもりふたたび

長いこと振り返りもストップしてしまい、書けずにいました。

その理由は「長男ひきこもりふたたび」という状況になっています。まさか2回目が12年の時を経てやってくるとは思いませんでした。

 

2022年3月、長男は5年勤めていたスーパーを辞めて、

「英語を使った仕事をしたい、勉強もしたい」と意気揚々と未来の目標を語って「仕事をしながら、次の仕事を探そうと思ったが、できなかったから、辞めてから探す」と言って3月は有休消化、4月退職後から職探しに入ると思って見守っていました。

 

雇用保険の待期期間の3か月で、職探しするだろう、5年間スーパーで働いたし、次の目標もあると思って見守っていましたが、特に動きはなく、昼夜逆転のゲーム生活。失業手当をもらってから働くつもりかもしれないと・・・

 

雇用保険の支給期間の3か月間、ハローワークに行く姿はありましたが、それ以外は特に変化なく、昼夜逆転のゲーム生活。オンラインで自費でキャリアカウンセリングは受けていると話してはいたが、具体的な応募をしている様子は見えませんでした。

 

10月仕事を辞めて半年たって、私もしびれを切らし「仕事探しはどうなってるの?」と聞くと、「うるさい、ほっといてくれ」生活リズムは崩れ、食生活も乱れ、お風呂も入らない(1週間に1回程度)に完全なひきこもりになっていきました。

 

働いていた時も「部屋が汚い」「仕事に出かけるのがギリギリ」、そういう所が気になって、↓2冊の本を読んでみたら・・・

内容が、長男の行動や様子にピッタリ当てはまり「ADHDかグレーゾーンかもしれない」という思いが強くなっていました。体の多動は違うなと思いましたが、体が多動でもそうでなくても、脳の中が多動ということを知り、であれば、おそらくそうであろうと思うようになりました。

 

「やりたいと思っていても動けない、ゲームに逃げる」

「ぎりぎり行動」「片づけが苦手」「先延ばし・面倒くさい」が口癖

困ったときや苦しい時「自分の気持ちを言葉にして伝えない」

小さい時の様子や行動パターン

高校生の時の不登校・家出・ひきこもり

いろいろなことが、もし「ADHDかグレーゾーンかもしれない」なら、今まで起きたことが、パズルのピースがカチャっとはまるように、理解できる気がしたのです。

 

しかし、もしそうなら、私は12年前より年を重ねているし、このまま放っておくわけにはいかない、8050問題は他人事ではないと思い、早目に行動に移すことにしました。11月半ば過ぎにとある就労支援事業所に相談に行ってみると「とにかく来ていただければ何とかします」「障がいの診断がないと本格利用はできない」が体験はできるということで、長男に意を決して話してみることにしました。

 

親の年齢や、小さい時から今までの長男の行動、この先の人生のこと、真剣に、細心の注意を払いながら「個性」「凸凹」という言葉を使い話をしてみました。

 

長男にとっては晴天の霹靂で、おそらく話を受け止めるのに時間が必要と思い、時間をおいて「就労支援に相談に行ってみないか」と声掛けすると、「行ってみる」と即答。12月本人が予約し、相談に行き、3日間の体験も無事通ったので、そのまま通所、診察につながり、うまくいくと思っていたら・・・結果「行かない、まだ自分が発達障害かどうかわからないし、診断を受ける準備もできていないし、もし発達障害だったら受け止める準備もできていないから」と・・・

 

まぁ長男の気質を考えれば、当然だったかもしれないが、期待していただけに、すっかり気落ちした。気を遣いながら話したり、新しいところに相談に行くのは、精神的にも肉体的にもかなりの疲労で、たいてい数日後に腰痛、体全部ががちがちになってしまい体調を崩す、若い時とは心身ともに耐えられる度合いが違うことをしみじみ感じる。だから話す時は、自身の心身もケアをしながら、自分の体調の良い時に、そして長男の調子の良さそうな時を見計らって話す、そんな進め方しかできない。とにかく焦らず焦らず。

 

12月末は父親と部屋の大掃除、新しい机の組み立てをし、小学生からの机を粗大ごみに。新たな気持ちでスタートできるように、苦手なところをサポートしたが、動きはなく、生活は変わらず。

 

今年1月半ばころに「何か具体的に動いてるの?」と聞くと、「動いていない」

「働く気持ちはあるんだよね?」「働く気持ちはある」「11月にも話をしたけど、親も年を取るから、先のことを考えて動いていかないといけない。診察や支援を受ける準備ができていないけど、働く気はあるなら、アルバイトでもいいから探して応募しよう」「わかりました!」と。

 

この会話を受けて、私は長男ができそうな英語を使う仕事や近所のアルバイトなどの求人情報をチャットで送ってみたが、反応が全くなかった。

 

「チャット見た?」「働く気はあるというなら、行動しないと」というと

「今は病院に行きたい、自分が発達障害がどうか知りたい」

「本も読んだが、自分には多動がないから、ADDだ」

「病院の予約取れるまで、他の支援やサポステに行ってみたら?」

「行かない、今はとにかく病院に行く」

 

11月に話をしてから約2か月、本人の口から病院に行くという言葉が出たので、これは一歩前進。一緒に近所の病院探しをし、本人が病院を予約、診察を受ける予定になった。会話の中から本やネットからいろいろ発達障害について勉強しているのが分かった。

暦がひと回りして、年表にしてみた⑤2015年

気になりつつ、気づいたら10か月もほったらかし。久しぶりに書こう!順調に入力してたのに、画像貼り付け、取り消しとかしてたら、文章消えちゃった(泣)

 

その文章は載せるなという「サイン」なのね、分かりました。書き直します。

 

2015年

二男 浪人~大学1年

おめでたいはずが、紆余曲折の1年。第一志望の国立に不合格となった時点で、合格していた私立に行くと思っていたら、私も知らないうちに国立後期を受けて、結果合格し、その国立に行くと、急に言ってきて・・・

【左手打撲事件】

私はどういうことなのか、二男の部屋に聞きに行くと、結論だけで詳しく話さず、もう話すことはないとばかりに、引き戸をバンッとすごい勢いで閉めた。「痛いっー!」戸柱に手を置いていた私、左手を挟まれた。手はみるみるグローブのように腫れて、湿布してあわあわしながら、この家にいては心身おかしくなる。腫れや痛みは気になったが、とにかく出勤、職場で応急手当してもらう。でも私の異様さを察した職場のみなさんは心配そうに話しを聞いてくれた(泣)帰宅時に病院に寄りレントゲン診察、骨に異状なく打撲だった・・・打撲の痛みよりも感情の処理が追い付かない。なんで私がこんな目にあわなきゃいけないの?感情がぐるぐるして苦しかった。

【入学式】

「入学式はいつなの」と聞くと「来なくていい」と。いくら第一志望でなくても大学生となる二男を祝いたい気持ちだったのに、何でそういうこと言うかな、本当に悲しい。祖母が状況を見かねて二男に「入学式、お母さんだって見たいのよ」の一言で、態度を軟化。二男は一人先に会場へ、私も一人入学式を見に行った。嬉しそうに入学式の看板の前で写真を撮る親子の姿がうらやましく、複雑な気持ちのまま会場を後にし出勤。

ダブルスクール

大学が始まって1~2週間たった時、急に「公認会計士の資格を取りたいからダブルスクールに行かせてくれ」と言ってきた。まだ大学も始まったばかり、大学でも資格系の授業はあるだろうし、公認会計士の勉強サークルとかもあるから、まずは大学の授業を優先と話すと、「行くはずだった私立の学費と国立の学費の差額があるだろう、それで行かせてくれ」と・・・

私は目が点になった。この時、なぜ私立でなく国立を選んだ理由が分かった。第一志望に行けなかった、学歴格差を資格で埋めようと考えたようだ。

それなら、資格をとって公認会計士として将来働きたいのかと聞くと「別になりたいわけではない」と・・・なりたくないなら、ダブルスクールは必要ない。差額を使うなら、留学や本当にやりたいことが見つかった時に考えればいいということで、二男はダブルスクールをあきらめたが、前途多難を予感させるスタートだった。

【大学から手紙】

前期が終わり、夏休みに入ると大学から保護者宛てに手紙が届いた。「前期必修科目○○単位落としているので、学生本人と面談します」という内容だった。二男に確認すると「やる気が起きず、出席しなかった」と。はぁー--切り替えて大学に行ってると思ったら、溜息しかでない。

【長引く反抗期】

面談も受け、ヤバいと思ったらしく、授業は行っているようだった。アルバイトはしている様子がなく、相変わらず何も話さない。大学生活の様子は全く分からないが、分かったことは、ボルダリングサークルに入ったことと昼ごはん。実費支給にしていたので昼代の学食のレシートには品目とカロリーがしっかり書いてあった(笑)大学生活を楽しんでいる感じは伝わってこず、大学にとりあえずいって「こなしている」という感じだった。不本意入学をいまだ引きずっているのか、他責か、何を聞いても無視、何も話さない、「おれにかかわるな」という威圧感がすごかった。

 

長男 22~23歳

変わらずゲーム三昧、昼夜逆転の引きこもり生活。

この頃、私は「何かできることはないか」と公的支援や引きこもりに関するサイトで情報収集している中で

ヒューマン・スタジオ | 不登校・ひきこもり生活研究所

に巡り合い、代表の丸山氏のメルマガ、著書を読んで希望をもらった。ヒュースタのHPで親の会「しゃべるの会」というイベントを見つけ、参加してみることにした。同じ悩みを持つ親御さんたちと、それぞれの思いを打ち明けたり、丸山さんからアドバイスいただくこともできた。この時自分が動いたことで、勇気といつもと少し違う空気を感じていた。

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この会の後、長男にはまずは身体良くしよう、背骨気になるから整体に行ってみないかと話すと「行ってみる」と、近所の整体院に定期的に通いだした。長男の引きこもり生活の中で初めての前向き発言と行動だった。

 

振り返ってみると、この2015年が少しずつ動き出す兆しの時だったのかもしれない。。

暦がひと回りして、年表にしてみた④2014年

あっという間に6月も末に、5月連休明けから体調が低空飛行で日常生活を送るのが精いっぱいでした。過去のきつい時間を思い出して書くという作業に向き合うのは、なかなかハード、最近やっと体調が上向きになり、さてと・・・という感じです。

 

2014年 家族4人が3LDKにひしめく、ここから数年が一番きつかった。まずは

 

二男が高3~浪人

高校卒業、3年間・・・当たり前に様なことに思えるが、長男は留年・不登校で卒業式に当の本人も家に居なかったので、そういうことを考えると二男の高校卒業に立ち会えることは感慨深かった。(クラス役員をやったり、卒業式や謝恩会も参加できたし、ママ友もできたし)大学受験は国立一本、他は全く受けず・・・センター試験の結果でかなり難しいと思っていたが、結果は不合格。予備校通いを決め、授業以外は部屋にこもる浪人生活でした。相変わらずだんまり不機嫌のまま。いつになったらこの態度は変わるのか・・・

 

長男はひきこもり 21~22歳

昼夜逆転、食事も不規則、ゲーム三昧の日々。リビングのテレビでゲームをするので、それが私のストレスになる。特に私はシューティングゲームの銃声音を聞くのがたまらなく嫌で、自室にゲーム機を移動してやるように言うと、回線をつなぐためリビングから自室まで太く長いケーブルを引き、それが邪魔で私や夫と衝突(のちに無線でつなぎこの問題は解決)。お風呂も入ったり入らなかったりで、まるで長身長髪の浮浪者が家にいるようでした。

 

不満だらけの夫

思春期に離れて暮らした息子たちはとにかく「父親」と交わろうとしない。帰国後の仕事、同期に比べてポジションも期待通りではない状況にイライラを募らせていた。その上息子たちへの苛立ちもある。関係性を築く努力より、飲酒で解消しようとするので、私も息子たちもさらに距離を置き、避けるようになっていた。家飲みで野球を見ては文句を言い、ニュースを見ては文句を言い、リビング以外居場所のない私は、夫の愚痴や文句、ネガティブな言葉を聞くのが本当に嫌だった。

 

不定愁訴の嵐の私

そんな3人と暮らす私は、積もり積もったストレスと疲れと更年期で、あちこち不調だらけ。ヨガ、鍼灸に通い、漢方も飲んだり、アロマテラピーを受けたり、いろいろできることはしつつも、心は晴れない日々に体調もアップダウン。このころから、不登校やひきこもりの本を読んだり、家族の会に行ってみたり、支援や対応について自分なりに調べて始める。夫に対しては「働いて収入を得る」こと以外期待せず、私は主婦としてできることをやろうと割り切って過ごすことにしていた。私は夫に「態度が変わらないなら、二男の大学受験が終わったら離婚したい」と切り出したが、夫は「自分を変える努力するから離婚はしたくない」と。ほんとに変わるのか?期待半分、とにかく様子を見ることにして、万が一用にモラハラ言動の記録はつけ続けた。 

暦がひと回りして、年表にしてみた③2013年

今年の春は風が強い。窓から外を眺めると、公園の樹々の枝が左右にゆらゆら大きく揺れていて、気圧に敏感な私は、それを見ただけで「あー出かけたくない」と思ってしまう。公園の樹々の隙間からブランコに乗ったこどもがふわりと浮かんでいる。風などまったく気にせず元気に遊ぶ子どもがうらやましい。

 

さてさて暦がひと回りして、年表にしてみた③2013年

2013 長男20~21歳

長男は行方不明、電話もメールも音信不通のまま1年が経とうとしていた。相変わらず生存確認は通帳の記帳のみ、どこでどうしているのやら・・・GW前だったか、明けだったか、記憶が定かでないが、ある日長男宛ての宅急便、段ボール1箱が届いた。都内から差出人は知らない人、何?と思って開けずにおいておくと、翌日長男が帰宅した。

「ただいま」

『あなたっ・・・!どこでどうしてたの?心配してたのよ』

髪は伸び切ってジーザスクライストのようで、痩せてお腹だけポッコリ出て、アフリカなどでみかける栄養不足のこどものようだった。この体形、いったいどんな生活をしていたのだろう・・・

「ガールフレンドの家に居候していた、誰とも会いたくなかった」

『ガールフレンドって一人暮らしなの?あなたが居候してても親は何も言わないの?』

「親は海外にいて、俺が居ることは知ってるが、俺は大学生ってことになってた」

『そんな子がいるのね・・・で、どうして戻ってきたの?』

「彼女が引っ越すから」

 

居場所があったんだな、よかった。その彼女にお礼を言いたい「ありがとう」

戻ってきてくれた、ここにいる、その安心感はあった。そして期待感、少し先に明るい未来があるような気がしていたが、この日から長男の家での長い引きこもり生活が始まるのだった。体調に波があるようで、風呂・食事は不定期、昼夜逆転、ゲーム三昧、たまに自分の用事のために出かける以外はずっと部屋にいる、そんな生活。お腹ポッコリは家での食生活のおかげか、あっという間にぺったんこになった。長男のそんな様子を見ると、話しをしたくてもなかなか声が掛けられない。私は「どうしたらいいのだろう」と日に日に無力感にさいなまれていった。

 

二男高2~高3

大学受験に向け塾通いが始まった。塾代は半端ない、各講習や模試、湯水のように出ていく。家では相変わらず何も話さず不機嫌な態度で、相談もなく本人が勝手に決めてきて、こちらは払うだけ。進路もようやく決めたが、兄に対する憤り、それに対してなにもしない親に対する怒り、同級生と比べ自分の家族は「普通」ではないという恨みにような感情があるのだ。

部活は、とある部員のあり得ない失態をきっかけに、最上級生の連帯責任という監督独断で、夏の最後の大会も3年生中心のチームではなく、2年中心のチーム作りにすると決められた。次男は最後の大会のメンバーに入ったものの、出場の機会もないまま終わった。とはいえ監督お気に入りの3年の部員は出場していたので、アピールのない部員は「外された」のだ。当時世間から注目が集まっていた監督は「体面を保つ」ために、高校生の部活を利用したとしか思えない。親としてはそれが悔しいし、この理不尽に対して、ふつふつとした思いがしばらく続いていた。部活も終わり、本格的に受験モードに突入。

 

長男の不在中、長男の部屋を使っていた私は、春から長男が帰宅したことで、家の中での居場所がなくなってしまった。

LDKのマンションで3つの個室には夫、長男、二男がそれぞれ。夫と同じ部屋で寝起きするつもりだったが、いびきと加齢臭・飲酒の臭いでとても同じ部屋では寝られない。仕方なくLDの一角をロールスクリーンで仕切り、そこで寝起きすることにした。リビングの一角で生活音はどうしよもなく、まったく気を遣わない夫は深夜に飲食も平気、更年期もあり、薬がなければ寝れない私は心身不調の日が多くなっていった。

夫には幾度どなく話をしても、夫の酒癖・モラハラは変わらず、私はこの先一緒に人生を共にすることはもう無理と思うようになる。夫には自分の思いをぶつけ、その時夫は話は分かったと数日はおとなしくなるが、また同じことを繰り返す。二男の受験が終わったら離婚したいと心底思うようになっていた。

 

この頃の夫のことはあまりよく覚えていない。相変わらずの自己中心生活、出張も多く、仕事とゴルフ、自分の気に入らない状況には怒りをぶつける、私とも息子たちとも溝は埋まっていない、そんな感じだった気がする。年のせいかお酒に弱くなり、酒量も感情もコントロールをできず、家族と衝突することが増えていった。

 

LDKに男3人、酒癖悪い夫、ひきこもり長男、だんまり不機嫌二男と更年期の私、4人それぞれのエネルギーが四角い部屋にギューギューになり、時にはぶつかりスパーク。それぞれが息をひそめ何とか暮らしていたが、時折夫が無遠慮にかき乱すそんな生活だった気がする。

④2014~に続きます。

暦がひと回りして、年表にしてみた②2012年

2021年のGWは今日で終わり、3回目の緊急事態宣言が出て、2年連続ステイホームの休みになりました。3月に職場の引っ越しがあり、4月新学期がの準備などで忙しく、そしてここから内容が更にヘビーになるので、書くのが先伸ばしになってしまっていました。

 

年表②は2012年

2012 長男高校卒業、二男高2、夫帰任

長男 高3・19歳

3月卒論も出さず、本人所在不明のままの原級生面談に臨むことに。退学の書類に判を押すつもりで一人で高校へ面談に向かうと、「本人の持つ基礎学力と可能性を考えて、卒業だけは認めます。一人の青年の未来のために、判断しました」と校長先生・・・私は涙が止まらず嗚咽。面談を終え廊下ですぐに当人に連絡したけど、返信はなかった。

 高卒と中退では雲泥の差、この先のことを考えても本当に良かったという安堵感に包まれた。この高校の先生方には思春期の男子を寛大に受け止め、教育者として見守ってくださったこと、感謝しかない。「ありがとうございます」この一言に尽きる。

 当の長男はといえば、昨年から無断外泊が続いていた、正月も帰らなかった。いったいどこにいるのか?いくら連絡しても返事のない日々。警察にも捜索願を出した。この時警察から当人の携帯に電話「○○警察署です」と留守電を入れてもらうと、すぐにメールで無事であるという返信だけは帰ってきたが、無断外泊、連絡不通は変わらずだったが、4月のある日、急に帰宅。ほっとした。担任の先生に連絡を取り、担任の先生から卒業証書を受け取った。

その数週間後、ちょっと出かけてくると言って帰らず、また行方知れず、音信不通になった。捜索願を出した警察に「帰宅しました」と連絡したが、数か月後再度「捜索願」を出しに行くと、その時の長男は20歳になっていたので、未成年だった時と違い「大人が本人の意思で家を出ているので、どうしようもない」と言われた。

長男の生存を確かめるのは、机の引き出しにあった通帳。記帳してみると入金と出金があり、生きていることがわかり、ほっとした。この記帳内容で居場所を探せるかもと思い、どこのCDでお金をおろしているのか?入金している会社は?・・・金融機関に事情を話しても「個人情報保護法」で、親であっても教えられないと。音信不通の長男の無事を願う毎日だった。

 

二男 高校1~2年生

1年から2年になるときに内進生とミックスされクラス替え。この頃、私は次男の部活の監督の指導はパワハラ?ではないかと不信感を抱いていた。この部活の夏合宿で、次男は中指の腱を切り、大けが。近所の病院で2泊3日入院手術をした。後遺症はなかったが、以前のようにプレーできるようには3か月くらいはかかると医師には言われ、その上同様のシーンに対する恐怖心もあるのか、部活に復帰はしたものの思うようにプレーできず、悔しいシーズンとなる。また進路もそろそろ決める時期にも入ってきていたが、周りの進路に同調してみたり、部活も勉強も中途半端なまま高2が終わろうとしていた。家では変わらず、頑なで、何も話さない、不機嫌な態度のまま。

 

1月広州から帰任し、東京勤務となる。車生活から一転、満員電車の通勤。単身赴任生活4年、長年の一人暮らしは生活スタイルが確立していて、夫のタイミングで飲食、風呂、テレビを見るなど、夫不在で出来上がっていた私たちの生活スタイルとは合わず、夫VS私、家族という場面が増え、ギクシャクする。長期休みとなるとゴルフ旅行に出かけていた。

 

夫が帰任し、これでいろんなことを一人で抱えなくて済む、精神的に楽になるかと思ったが、現実はその正反対に。理由は夫のモラハラ。夫は仕事のストレスや家族の現状に対する不平不満を解消したいのか、飲食が長時間に。結果酒癖の悪さを指摘されると、悪態をつき暴言をを私に向けるようになってきた。

夫の酒癖・モラハラ、長男の行方不明、二男のだんまり不機嫌、私自身は更年期、それらが重なり、心身耐えられなくなったのだろう。11月のある日、夫の帰宅時の飲酒暴言を受け、この日を境に夜寝られなくなったしまったのだ。そして体に力が入らずとにかくだるく、うつ病かもしれないと思うほどしんどかった。早めの通院と薬で夜寝ることはできるようになったが、このころから薬を飲んでも頭痛が終日治まらない、そんな体調不良が続くようになった。

 

良いとこと辛いことが起き、アップダウンが激しかった2012年、私自身も更年期に入り、大きく体調が変化し、体力気力では乗り越えられなくなってきていた。ここから身の回りに起きることと、自分の心身とどう付き合っていくか、ある意味修行が始まる。

 

③2013~に続きます。 

引越~想定外のイマ「フルハウス」

昨夜の地震は横揺れが長く怖かったですね。震災から10年になろうとしてるのに、余震とは・・・深夜の地震津波なくてほんとによかった。

 

年表の続きの前に、今の状況の少し書きます。

2010年末に引っ越した部屋に現在、私、28歳長男、25歳二男が3人同居、夫は国内単身赴任中です。

 

震災の日は二男の中学の謝恩会のために有休をもらい、夕食の買い出しをして戻った玄関でグラグラグラ~っと、幸い3人とも家に居ました。

 

その家、11年前に購入したとき、数年後くらいには2人の息子のうち1人は独立しているはずと想定して3LDKに決めたのですが、なぜがまだ2人とも同居中・・・まさに想定外なのです。

 

単身赴任中の夫が時々帰省すると3LDKの部屋は大人4人のぎちぎち状態、私はこの状態を「フルハウス」と呼んでます。

 

普段、二男は夫の部屋を使い、在宅ワークもしています。しかし夫が帰省の時は、夫は自室で寝るので、二男はリビングに寝るという約束で出戻ってきました(出戻る→これはまた後程年表で)。

 

普段3人の生活に一人増えると、部屋、トイレや風呂、共用部でのタイミング攻防があり、あからさまに夫帰省を歓迎しない息子たちは、いつものペースが崩れることへの不満を「ドカンドカン」とドアの開閉や足音に現すのです。そういうイライラが伝わる生活音が私は大嫌い、イラッとします。特に二男「物にあたるのは止めて」と何度話しても、イラッとしてわざと起こす生活音が負のエネルギーとして伝わってきて、私は気持ちがすごく疲れます。

 

あと臭い問題、呑み食いが大好きな夫は夕飯が超長く、お酒の種類を変えてだいたい5時間くらい飲み食べ続けます。そんな中高年の男性の朝の部屋の臭い、想像つきますね、もう半端ないのです。皮膚から放出されるお酒と食べ物の臭いはとても耐えられず、窓全開にしなければいられないほどです。そしてトイレも・・・人間だから仕方ないけど、汚れるし、家事は増えるし、たった一人でも、この差が大きい、本当に毎回フルハウスは疲れます。

 

テレビチャンネル権問題もあります。夫は家に居る時はほとんどリビングでずっとテレビを見ています。しかも見るのはほぼスポーツだけ。ゴルフ、アメフトの録画から始まり、この滞在中はカーリング。私が見たいテレビは全く見ることができません。夫の部屋にテレビはあるのですが、二男が日中は占領しているので見れないのです。Tverやネットフリックスが使えるようになったこの頃は、少しはこのストレスは減りましたが、ゼロにはなりません。

 

フルハウス」今は夫が帰省中の数日間の我慢だけど、来年は夫が定年。息子たちには、来年の夫の定年にはそれぞれ自立して家を出ていくように伝えていますが、まだ具体的なアクションは見えず・・・というか、コミュニケーションが取れないので何を考えているか分からないというのが現実です。とにかく私はこのフルハウス状態を早く脱したい!です。

 

さてさて、どうしてこの状況に至ったのか・・・次回、年表②に書いていきます。