三都ものがたり、その後

息子たちの自立までの記録、現在格闘中です。【過去ログに北京情報もあります】

暦がひと回りして、年表にしてみた②2012年

2021年のGWは今日で終わり、3回目の緊急事態宣言が出て、2年連続ステイホームの休みになりました。3月に職場の引っ越しがあり、4月新学期がの準備などで忙しく、そしてここから内容が更にヘビーになるので、書くのが先伸ばしになってしまっていました。

 

年表②は2012年

2012 長男高校卒業、二男高2、夫帰任

長男 高3・19歳

3月卒論も出さず、本人所在不明のままの原級生面談に臨むことに。退学の書類に判を押すつもりで一人で高校へ面談に向かうと、「本人の持つ基礎学力と可能性を考えて、卒業だけは認めます。一人の青年の未来のために、判断しました」と校長先生・・・私は涙が止まらず嗚咽。面談を終え廊下ですぐに当人に連絡したけど、返信はなかった。

 高卒と中退では雲泥の差、この先のことを考えても本当に良かったという安堵感に包まれた。この高校の先生方には思春期の男子を寛大に受け止め、教育者として見守ってくださったこと、感謝しかない。「ありがとうございます」この一言に尽きる。

 当の長男はといえば、昨年から無断外泊が続いていた、正月も帰らなかった。いったいどこにいるのか?いくら連絡しても返事のない日々。警察にも捜索願を出した。この時警察から当人の携帯に電話「○○警察署です」と留守電を入れてもらうと、すぐにメールで無事であるという返信だけは帰ってきたが、無断外泊、連絡不通は変わらずだったが、4月のある日、急に帰宅。ほっとした。担任の先生に連絡を取り、担任の先生から卒業証書を受け取った。

その数週間後、ちょっと出かけてくると言って帰らず、また行方知れず、音信不通になった。捜索願を出した警察に「帰宅しました」と連絡したが、数か月後再度「捜索願」を出しに行くと、その時の長男は20歳になっていたので、未成年だった時と違い「大人が本人の意思で家を出ているので、どうしようもない」と言われた。

長男の生存を確かめるのは、机の引き出しにあった通帳。記帳してみると入金と出金があり、生きていることがわかり、ほっとした。この記帳内容で居場所を探せるかもと思い、どこのCDでお金をおろしているのか?入金している会社は?・・・金融機関に事情を話しても「個人情報保護法」で、親であっても教えられないと。音信不通の長男の無事を願う毎日だった。

 

二男 高校1~2年生

1年から2年になるときに内進生とミックスされクラス替え。この頃、私は次男の部活の監督の指導はパワハラ?ではないかと不信感を抱いていた。この部活の夏合宿で、次男は中指の腱を切り、大けが。近所の病院で2泊3日入院手術をした。後遺症はなかったが、以前のようにプレーできるようには3か月くらいはかかると医師には言われ、その上同様のシーンに対する恐怖心もあるのか、部活に復帰はしたものの思うようにプレーできず、悔しいシーズンとなる。また進路もそろそろ決める時期にも入ってきていたが、周りの進路に同調してみたり、部活も勉強も中途半端なまま高2が終わろうとしていた。家では変わらず、頑なで、何も話さない、不機嫌な態度のまま。

 

1月広州から帰任し、東京勤務となる。車生活から一転、満員電車の通勤。単身赴任生活4年、長年の一人暮らしは生活スタイルが確立していて、夫のタイミングで飲食、風呂、テレビを見るなど、夫不在で出来上がっていた私たちの生活スタイルとは合わず、夫VS私、家族という場面が増え、ギクシャクする。長期休みとなるとゴルフ旅行に出かけていた。

 

夫が帰任し、これでいろんなことを一人で抱えなくて済む、精神的に楽になるかと思ったが、現実はその正反対に。理由は夫のモラハラ。夫は仕事のストレスや家族の現状に対する不平不満を解消したいのか、飲食が長時間に。結果酒癖の悪さを指摘されると、悪態をつき暴言をを私に向けるようになってきた。

夫の酒癖・モラハラ、長男の行方不明、二男のだんまり不機嫌、私自身は更年期、それらが重なり、心身耐えられなくなったのだろう。11月のある日、夫の帰宅時の飲酒暴言を受け、この日を境に夜寝られなくなったしまったのだ。そして体に力が入らずとにかくだるく、うつ病かもしれないと思うほどしんどかった。早めの通院と薬で夜寝ることはできるようになったが、このころから薬を飲んでも頭痛が終日治まらない、そんな体調不良が続くようになった。

 

良いとこと辛いことが起き、アップダウンが激しかった2012年、私自身も更年期に入り、大きく体調が変化し、体力気力では乗り越えられなくなってきていた。ここから身の回りに起きることと、自分の心身とどう付き合っていくか、ある意味修行が始まる。

 

③2013~に続きます。